いまさらながら、クライマーズ・ハイ(NHKドラマ版)の感想文

内容の解説は無しで、ただの感想です。

ドラマ版では、岸部一徳が扮する社会部部長が好演だった。

小説、ドラマ、映画全部見て、思うところが色々あったが、ドラマ版の方が比較的原作に忠実なところが多めだった。
映画版で納得出来ないは、悠木が結果として死なせてしまったかもしれない新聞記者のいとことの話がでてこないことだね。
これではクライマーズハイは成り立ってないと思う。
自分は、この話の骨格の1つに、人が、他人の命の重さ、生と死に向きあうとはいったいなんだろうか。という問いかけがあると感じた。
悠木は親友の安西、日航機で父親を亡くして新聞を渡した妻と子、機内で家族に遺書を書き残した男性、そして悠木が結果として死なせてしまったかもしれない新聞記者ことを好きだったいとこ。
この人たちとの出会いが、結果として新聞記者としてクライマーズハイとなりかけていた悠木を山から下したんだと思う。

どの命も等価だといいながらメディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中におしつけてきた。
偉い人の死。そうでない人の死。可哀想な死に方。そうでない死に方。
そして日航機事故のニュースを見て涙する若い女性を見て、死んで悲しんでくれる人々がいる分、幸せであろうと羨ましがる老婆。
作者の言葉は、私が長年、「理解はしているつもりだが、世界で、これより勝る理不尽はあるだろうか。」と心の中で思っていたことと合致した。

同時に、だからこそ1人1人の命はかくも尊いんだと感じながら見ていた。

その人々は、航空機事故という、たまたま凄惨な死に方をした。そして520人という数で勝手にまとめられただけだったんだ。
マスコミは、史上最悪ともてはやし、国民は感傷に浸る。
520人は、1人1人が交通事故で亡くなった新聞記者や安西と変わらない。
全員にとって、掛け替えのない命だった。
それが、勝手にまとめられて話題に挙げられ、抽象化された表現と、悲惨な映像やストーリーが人々を泣かせてしまうんだということ。
だが、それはいったい誰のための涙なんだろうか。本当に誰かに対する涙なんだろうかと。

あのタイミングで、出会いと別れがなければ、悠木は、ほぼ固いスクープ記事を捨てられただろうか。「こころ」に少女の投稿を載せる決断が出来ただろうか?
悠木は、怖くなって迷っていたんだと思う。

だが、せめて自分が深く関わる人たちに対して真摯でいようと、あの出会いと別れの体験から行動しえたのだと思う。
悠木は根っから強い人間ではない。残念ながら多くの人間は強くない。強くないからこそ、自分に言い聞かせて、立ち向かい、そして向き合う勇気が必要になるんだということをこの話は教えてくれた。

同時に、「こころ」に投書を寄せた少女が語った「私の父や従兄の死に泣いてくれなかった人たちのために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても。」
これは、人間が自己中心的な考えを基盤に持った生き物であるという真理を鋭くついた言葉であると感じ、これもまた人間の純粋な一面に他ならないと感じた。

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